終わんないでTonight!

幸せすぎてはっきりとは思い出せないくらい楽しかった18周年が、惜しまれつつも見事に幕を閉じた。

2022年は、関ジャニ∞っていう営みが好きだな〜と思わされた一年だった。ちょうど一年前の8BEAT神戸公演で「私ってエイトのことこんなに好きだったんだ」と思い、夏の日産スタジアムで「やっぱりエイトのことが大好き!」と思い、冬のドームツアーで「今までで1番エイトのことが愛おしい!」って思った。本当に幸福な1年だった。

 

エイトの現場は18祭ドームから声出し解禁になったわけだけど、初めてこの報に触れた時、飛び上がりそうなほどに嬉しかった。

私がエイトを好きになったのは2018年だけど、ライブに初めて入ったのは2022年になってから。だから声援なしの現場が当たり前になっていて、むしろ声援ありのライブに入る想像ができなかった。でも実際に声出しが解禁されると、もう声出し不可の現場には戻れない!って思うくらい、声援アリのライブの虜になっちゃった。安田さんの「愛してるー?」に「愛してるー!」って返せたのも、ワンツー・ウー!ってやっと言えたのも、本当に幸せだった。普通、生きてて「愛してる」って声の限り叫ぶ機会なんてないでしょ? それも、世界一愛してる人たちに向かってだよ。いつかまるちゃんにも「愛してる」って言いたい、言わせて欲しい。喉から血ぃ出てても叫ぶからね。

そして何よりも、ずっとずっと「勝手に仕上がれ」でコーレスしたいと思ってた夢がやっと叶った。これが私本当に嬉しくて、名古屋では感極まってほとんど泣きながらレスポンスしてた(怖)。

 

私はエイトの曲の中で「勝手に仕上がれ」が1番好きだ。いつかこの曲でエイトに声援を送りたいという夢があったから頑張れた日が何度もあったし、この曲を聞いて何度も背中を押されてきたと思う。しんどい時、色んなことが嫌になった時、逃げたい時、自分を励ますように何度だって聞いてきた曲だった。

どうしてこんなに「勝手に仕上がれ」が好きになったんだっけと思い返してみたんだけど、多分ルーツは十五祭にあるように思う。

初めて聞いたのはエイトを好きになって間無しの頃、元気が出るCDを買った時だったけど、その時は普通にいい曲だな〜くらいにしか思ってなかった。同じアルバムに入ってる曲だと「WASABI」とかの方が断然好きだったし。

でも十五祭の円盤が発売されて、しばらくは見る勇気が出ないまま寝かせて、発売から半年(!)経ってようやく見て、それで、電撃が走るように「勝手に仕上がれ」を好きになった。

だって、あまりにも壮絶で、綺麗だと思ったから。思い思いの色で振られる5万人のペンラ、熱気に満ちた5万人の声、メンバーもこれが終わったらみんな倒れちゃうんじゃないかと思うくらい必死で、それが凄く綺麗だった。

「勝手に仕上がれ」は音源だけで聞いても名曲だけど、やっぱりライブ映像で見てこその一曲で、エイトの声にお客さんの声が乗っかって初めて真髄を発揮する曲なんだと気がついてから、この曲が自分の中で特別な存在に変わった。それで、福岡に参戦する日の前日、予習も兼ねて十五祭の「勝手に仕上がれ」を見た。明日この曲でコーレス出来るかな〜って想像しながら見てたら、いつの間にか布団の中で号泣してた。情緒やば。エイトのオタクになってから何度経験しても新鮮に驚くんだけど、人間って幸せ過ぎて涙でることあるんだね。

 

そして福岡参戦当日。

バンドパートになって、横山さんが「やっとあの曲で声出せ!って言えるようになりましたね(大意)」って言った時、直感的に、仕上がれだ!仕上がれが来るぞ!と思って緊張のあまり同行者の服をわし掴んだことを覚えてる。ちなみにそのあと演奏されたのはズッコケ男道でした。今後私の直感は一切信用しないでください。

ズッコケ男道が終わって、(流れは忘れたけど)何度ともなく聞いたあのギターのフレーズが流れた時、とうとう来た!と思った。世界一大好きな前奏、村上さんが「声出せー!」みたいなことを言って(まじで覚えてない)、世界一かっこいいまるちゃんのベースが聞こえて、そして。

K!A!って音が自分の喉から出た時。嬉し過ぎて心臓吐くかと思った。

5人の輝き、観客の熱量、感情の昂り、うねり、そういったものがひとつの形に集約されて放たれた、もっとも美しい音の1つだと思った。もしもこの世からいなくなりたいと思うことがあれば、私は絶対この瞬間を思い出すんだろう。今この瞬間を閉じ込めて、未来の私にプレゼントしてやりたいなと思った。

私はあの時、一度は永遠なんてないと気がついた関ジャニ∞っていう存在に、もう一度永遠を見たんだと思う。

 

 

冬の18祭に参戦して、アイドルを応援するって行為は、永遠を夢見るということと同じなんだとつくづく思わされた。オタクたちはさ、今が永遠に続けばいいと思う瞬間を何度も何度も繰り返して、その永遠であって欲しい瞬間のかたまりとしてアイドルを見ているんだろうな。

だからこそ、本来は虚像側であるはずのエイトが「終わんないでTonight」と叫ぶこの曲が、どうしようもなく私には愛おしく尊く思われる。この瞬間が永遠だったらいいのにって思ってるのは私だけじゃないんだ、エイトも今がいつまでも続けばいいって思ってるんだ。そう思えるこの歌詞は、なんて言うんだろう、劇薬的な快楽というよりも、じわじわと幸福が襲ってくる感じの中毒性がある。

上手く言える気がしないけど、ファンとアイドルという関係は、虚像と虚像を見る者という単純な対立構造ではないのかもしれない。もしかしたらなんだけど、もしかしたらファンとアイドルという関係って、「アイドル」という虚構が永遠であるようにと願う、ひとつの運命共同体に近いのかもしれない。だからこそジャニオタってなんか妙な連帯感があるし、推しのことを身内みたいに思うんじゃないか。もちろん「かもしれない」としか言えないのは、そんなおこがましいこと一介のファンが言うんじゃないよという冷静な自分がいるからなんだけど。

でも18祭に入って、私にはどうしてもそう感じられて仕方なかった。あまつさえ、5人もそう思ってくれてるんじゃないかとさえ。

だからエイトもエイターも、「関ジャニ∞」という場所を、名前を、営みを愛していて、その永続性を願っているという意味では、運命共同体って言えるのかもしれない。そうでなくても、そう勘違いしててもいいんじゃないかな。何より勘違いでもいいからそう思えたのは、今関ジャニ∞でいることが楽しいと、5人が言葉にして伝えてくれたからだ。

そしてその運命共同体的な関係の象徴が、私にとっては「勝手に仕上がれ」なんだろう。

 

十五祭の円盤で見た、楽しそうだけど、でもどこか腹の座ったような顔で演奏してた6人の「勝手に仕上がれ」がどうしようもなく好きで、愛おしいと思う。そして変な話だと思うけど、6人の「勝手に仕上がれ」が愛おしいと思えば思うほど、弾けんばかりに跳ね飛ぶ5人の「勝手に仕上がれ」も、うっかりすると泣いてしまいそうなくらいに好きだと心から思うんだよ。

結局私はいつだって、今のエイトが1番好きだ!って思ってきたんだな。それは内側から自然と滲み出るように思う時もあれば、言い聞かせるように思う時もあった。もう見られない曲が、会えない人がいるのは寂しいと思うことだって何度もあった。それでも「今のエイトが1番好き」って気持ちは嘘じゃなくて、いつだって心の底からそう思っていた。今も思ってる。

そしてそう思っている間、関ジャニ∞は私の中で永遠であり続ける。